矢筈城跡保存会
理事 草苅啓介さん
「千利休は切腹せず、生きていた」
2026年05月10日号
7/5津山市加茂町で記念講演会
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」が好評だそうだが、その主要人物に「千利休」が近々登場する。利休は侘茶の大成者で「茶聖」とも称され、「内々の儀は宗易(利休)に、公儀の事は私に」と秀長(秀吉の弟)が口にするほど豊臣兄弟との絆は深かったという。だが、秀長没後、突如として利休は切腹を命じられたとされ、それが定説となっている。それに対し、矢筈城主子孫の草苅啓介さんは、利休は切腹せず、九州へ落ち延びる途中で一時期津山市加茂町に庵を結んでいたのではないかとする新たな説を発表した。
―利休が切腹せず生きていたというのは
「利休切腹については謎が多く、様々な説が研究者によって唱えられてきましたが、その根拠になったのは、後になって利休の子孫が書いた『千利休由緒書』です。その一方、生存説については、文教大学の中村修也教授が、当時の公家の日記等の一次史料に利休が逐電したという噂や利休の木像が磔になったという記述はあっても、切腹したとされる天正19(1591)年2月28日前後に利休切腹に関する記録が無いこと、そして利休が切腹したとされる翌年の文禄元(92)年5月、朝鮮出兵のため九州の名護屋城(佐賀県)にいた秀吉から母親の大政所の侍女に宛てた手紙の中に『利休の茶を飲んだ』と記されていること等をもとに『利休は切腹せず、堺から追放され、黒田官兵衛の案内で九州に至り晩年を過ごした』と唱えられています」
―どうして加茂町物見に
「実は、利休が九州に至る途中に位置する同所には、『利休屋敷跡』や利休の末裔と伝わる『千八兵衛の墓』といった利休関連史跡が今も残るとともに、利休が居た頃の良き風習を慕って元日の朝に村人が抹茶を点てて飲むといった伝承等が今に伝わる事から、利休は堺から落ち延びて九州に至るまで、暫くの間物見に隠棲していたと私は考えています。物見のすぐ近くには岡山県下最大の中世山城である矢筈城があり、第三代城主の草苅重継は毛利軍の最前線として秀吉軍を退け、毛利輝元や吉川元春の要請を受けて天正12(84)年の春に退城するまで城を守り抜きました。徹底抗戦する重継に業を煮やした秀吉が天正11(83)年12月に黒田官兵衛に矢筈城の請け取りを厳命した際、官兵衛が実際に陣を置いたと考えられる場所が物見で、同所の状況を熟知していた官兵衛が、後に堺から落ち延びた利休をしばらく匿った所が『利休屋敷跡』と考えています」
―記念講演会があるそうですね
「今年は、矢筈城跡が岡山県の史跡に指定されて20周年になります。7月5日〔日〕午後1時から、津山市加茂町公民館で記念講演会を催します。第1部で私が基調報告を、第2部で中村教授に『千利休の切腹と黒田官兵衛―利休切腹の真実―』と題して講演を行っていただきます。これを機に地域が活性化することに繋がれば嬉しいです。定員先着100名で入場無料ですので、ぜひお越しください」
▽矢筈城跡保存会=能勢信一会長、津山市加茂町河井130-1、電090・4696・6553
▽草苅啓介=1962年、岡山市生まれ。中央大学経済学部経済学科卒業。2005年に再発足した矢筈城跡保存会に理事として招かれ、主に学術的な面から「矢筈城跡」(岡山県指定史跡)の調査・研究に取り組む。津山市における中世城郭研究の草分け的存在で、『週刊日本の城』改訂版の執筆をはじめ、県内外で講演等も行っている。現在、津山市加茂町文化センター「エスペリア」勤務。

