地域で200年育てた廉塾バラ
世界バラ会議に誇りあるバラを
神辺から福山を元気に!
2024年12月20日号
福山市神辺町は歴史の宝庫である。古代から交通の要衝であり、人や物、文化が多く集まっていた。来年5月に「世界バラ会議」が同市内で開かれるが、地元に、もっとずっと古くから咲いているバラがあることをご存じだろうか? 地元の歴史研究者たちが調査した結果、中四国地方では5つしかない「国の特別史跡」である「廉塾」周辺に咲いていた赤い可憐な花が、200年以上前から大切に守られてきており、神辺こそバラの町だったのではないかということまで突き止めた。同町の町おこしにかける思いを取材した。
神辺学区まちづくり推進委員会(松本正志委員長)は2014年に福山市協働のまちづくり指針・行動計画を基に、神辺学区まちづくり基本方針を制定。17年度にはまちづくり行動計画を策定し、具体的事業展開に「志縁団体神辺宿文化研究会」(重政憲之会長)を設立して「歴史文化を活かしたまちづくり事業」を推進してきた。
同町の観光拠点となるものの一つに「神辺本陣」と「廉塾」があり、前者は、参勤交代のときに大名が宿泊していた施設で、延享3年(1746年)に建てられた。後者は、江戸時代後期の漢詩人で儒学者の菅茶山(1748―1827)が開いた私塾で、倒幕運動に影響を与えたという歴史家・思想家の頼山陽も同塾で塾頭を勤めていたという。その講堂・寮舎・居宅は現在もなお旧観を維持し、2021年2月から12年計画で保存整備工事が進められている。
同会では両所のほか、神辺公民館(現神辺交流館)などを会場に、17年から19年にかけて施設案内や様々な企画展示、史跡巡り、ガイドブック作成などを行いながら、神辺宿の歴史や文化について紹介してきた。重政会長(78)は「3年計画で、初年度は地域に関心を持ってもらって周知を図ること、2年目は文化資産を掘り起こすこと、3年目は矢掛町など近隣の宿場町との連携を図るなど、皆精力的に取り組んできました」と話すが、20年から本格化したコロナ禍で全ての活動が休止に追い込まれた。
コロナ禍を逆手に
ならば、コロナ禍を逆手に取ろうと、デジタル化に取り組み、動画作成やマップの作製、HP(https://www.kannabeshuku.com/)を立ち上げて多世代・他地域へのPRを強化するとともに、「神辺遺産」を創設し、遺産候補の推薦、募集を始めた。神辺遺産とは、地域に慣れ親しまれ、後世に継承すべき建物・施設・行事や自然・景観などと、それらを含む地域全域であり、「地域の人々自らが守り、後世に伝え遺したいという〝地域の宝〟」を地域・住民が主体で進める認定制度。推薦、募集にはフォトコンテストを実施した。
「廉塾バラを広めよう」
同町には古くから名前の分からないバラが咲いており、「ミステリーローズ」とも呼ばれて一時期話題になった。後に、鎌倉時代ごろに中国から伝わってきた(「明月記」に「長春花」として記載あり)とされる「庚申バラ」と分かった。だが、菅茶山が著書「黄葉夕陽村舎詩」の中でバラについて触れていることや、特に「廉塾ならびに菅茶山旧宅」の敷地内で多く咲いていることから「廉塾バラ」と名付け、神辺の宝として22年ごろから保存増殖活動が始まった。
さらに、同会副会長の菅波哲郎さんが調べたところ、同著書の中の詩に「桑陰半転薔薇径(桑の木陰の反対にバラの咲く道が続いている)」という表現があり、茶山にとって身近な生活地域に同バラが繁茂していたり、先祖の墓所近くの竹垣にも同バラが咲いているのを見つけて、遺伝子検査まで行ったところ同種であると判明したという。菅波さんは「当時は廉塾から墓所までの散歩道に『薔薇径』があったのではないか。ほかにも、様々なところで咲いていたのではないだろうか」と推測している。
また、頼山陽は京都で構えた屋敷にバラ園を設けていたが、菅茶山日記の中で福山城下へバラを移植したことが書かれていたり、頼山陽自身がバラを植えた描写を詩に書いていたりしていることから、菅波さんは、交流のあった二人の間でバラも行き来したのではないか、とも述べている。
同会では、来年5月の世界バラ会議福山大会に合わせ、〝平和の象徴〟に〝歴史〟を加味した地域ならではのバラとして「廉塾バラのまち神辺」を展開したいと表明。湯田小学校の児童が「かんなべ図書館」の花壇で同バラの世話をしたり、神辺町商工会女性部(平井典子部長)は挿し木体験会などを行って苗木を増やしたり、加工品もこしらえて廉塾バラの知名度アップに貢献している。
世界バラ会議の本番では、神辺駅前や図書館前、神辺町商工会や天別豊姫神社など、赤い可憐なバラが彩っていることだろう。
あんじんで「神辺を語る」
築200年以上の庄屋屋敷「菅波邸」を改修し、地域交流の場づくりを目指す「Cafeあんじん」(同市神辺町川南3199、藤近洋子代表、電084・966・3130、https://www.anjin.cafe/)では8月から月1回最終土曜日に、地元有識者に地域の魅力を様々に語ってもらう講座「神辺の語りべ 神辺を語る!」が行われてきた。初回は菅波さんが「廉塾バラ」について解説した=写真。その後廉塾ガイドの魅力や「神辺遺産—神辺の魅力再発見—」について話し続けている。
25年度の計画はこれからだが、2月には、神辺からベルリンオリンピックに出場したオリンピアについて語る予定。藤近代表は、「神辺を象徴するような古民家ですが、この町にとって大切な情報を共有したり、人が交流しあう拠点として運営していくつもりです。これからも、こうした講座などに興味をもって参加して頂ける場を提供していきたい」と意欲をにじませている。
まとめ
江戸時代の初期、倫魁不羈(りんかいふき、あまりに凄すぎて誰にも縛られない)な武将・水野勝成は、当初神辺城に入ったが、その後瀬戸内海の海上交通の利便性や西国監視の観点などから、神辺城から福山城へ移築したと言われている。江戸時代後期には、先述したとおり「廉塾」に関わりのある頼山陽が、著した歴史書「日本外史」によって尊王攘夷の機運を高め、倒幕運動の原動力になった。そうした江戸幕府の始まりと終わりに大きく関わっていた、〝近世近代の福山のルーツ〟とも言える同町の「廉塾バラ」こそ、福山を象徴するバラの花に相応しいのではないだろうか。