空港・鉄道・港湾活かした街
明治時代にタイムスリップ(40)
鉄道敷設に戸惑う福山町民

2018年05月20日号

周辺で深刻な反対運動

明治初頭の福山城界隈.

空港・鉄道・港湾をテーマにしたこの連載で、最も運賃が安い乗り物は航空機で、欧米までが10万円を超えても1m当たりに換算すると路線バスよりも安くなる。また、昔は貨物船の船底に便乗させてもらう船旅が最も安いとされていたが、それは記者(筆者)が幼い頃に読んだ冒険小説の話であった。残る列車の運賃は、福山ー尾道間が410円であり、500円玉1つ握って乗ってもお釣りがくる手軽な乗り物となっている。それも明治の昔、先人が苦労して敷設してくれた鉄道のお陰であり、その苦労がどれほどのものであったかを知るために、今しばらくこの「鉄道編」を続け、当時の世相をみつめてゆきたい。(西亀 悟)
明治の中期、この地域に蒸気機関車が走り始めた頃の運賃は1マイル(1・6km)当たり上等運賃が3銭、中等が2銭、下等運賃が1銭と定められていたそうだ。
この下等運賃に距離を掛け合わせると福山駅から各駅へは下り線で松永駅までが7銭、尾道13銭、三原駅までが18銭。上り線は笠岡駅までが9銭、倉敷27銭、岡山までが37銭といった計算になる。
これに対し、今日の運賃は次のようになっている(いずれも福山駅発の普通列車の運賃)
松永=240円▽尾道=410円▽三原=580円▽笠岡=240円▽倉敷760円▽岡山=970円。
ところで明治期の貨幣を現在の価値に換算すると大福餅が1個5厘、1銭で2個買えたそうで、現在の大福餅の値段は1個100円位なので、1円あれば200個買えることに。だとすれば、福山ー三原間の18銭は1800円となり、現在の同区間の580円に比べるとおよそ3倍程度の運賃であったろう。
 もっとも、これは1銭を100円として換算したもので、1銭はその倍200円の価値があったと言う人もいる。
いずれにしても当時の人が列車に乗ろうとすると大変な額であり、今日のように福山ー尾道間をワンコイン(500円玉)で気軽に乗れる代物ではなかったことがうかがえる。

不間山駅開業から10年、駅前に日露戦 争の帰還兵を迎える凱旋門が置かれた

そのため鉄道が開通してもしばらく利用を控え、旧来の乗合馬車や人力車に乗り、近場の往来に留めていた人が多かったのではなかろうか。
参考までに、手元に集めた資料によると明治中期の福山町における人力車の数は600台を数えていた。車夫らはこの鉄道を商売敵と捉え「駅前に車(今で言うタクシー)が待機すると我々の仕事が奪われる」とか、旅館業者は「日帰り出張が増えると宿泊客が居なくなると」と叫び「城の石垣を削り、城下町の中央を鉄道が縦貫するのは耐えがたい」といった懐旧の情を唱える地元有志らと共に「鉄道反対」の運動を繰り広げた様子は前号までの本編で記した通りである。
火中の栗を披露人
 さて、前号の本編は次のように結んで終わっている。
この山陽鉄道で結ばれた福山、尾道、三原はその敷設にあたって理解と協力の姿勢を示しながらも、本音の部分ではそれぞれのエゴや損得勘定も相まって、路線の決定に少なからぬ影響を及ぼしたことがうかがえる。
 いつの世もこうしたいさかいの場には仲介、調停者が現れるもので、尾道では西国寺の住職とともに当世の名士といわれた橋本吉兵衛、天野嘉四郎といった人がその任を担ったが、福山でも同じように火中の栗を拾う役を買って出る人が現れた。 
 先号から適宜引用している「福山市史第五編」(土居作治編著)によると「このとき反対派の説得にあたったのは上京していた学生有志で、福山町の将来の発展を約束させる道は一日も早く鉄道を敷設することで、今日の反対運動はそれに逆行するものであると説いて回った」と記している。
潮目変わった反対運動
当時、反動運動の先頭に立っていたのが藤井乾助という人で、その人物像を前号の本編では「藩校誠之館、英吉利法律学校(現中央大学)を卒業。広島県会議員(1期)を務めた後台湾に渡り、台北学院を創立するなどしたなかなかの人物で、彼が起こした反対運動は相応に重みのあるものだったろう」と記している。
ただ、この人のことをよくよく調べてみると、1894年に執行された「第4回総選挙」の立候補者名簿にその名があり、立憲自由党から出馬して落選している。
鉄道反対の運動を展開したのがその直前だったことを考えると「この運動は有権者の人心を得るための運動であった」とうがった見方ができなくもない。
これに地域のエゴや損得勘定も相まって、結局は路線の決定に少なからぬ影響を及ぼしたという程度の運動にとどまり、国家百年の大局感を欠いた運動と捉えられていたのかもしれない。
そこを突いて諭したのが前述の学生有志であり、もとより「鉄道は帝国背随幹線、国家必須のもの」と唱える政府の大号令に呼応していた町長(阿部正学)、助役(河相富明)らにとって彼らは心強い援軍となったに違いない。
これを潮目に鉄道反対の声は次第に薄れ、以後用地買収にも拍車が掛かってきたというのはあくまで記者(筆者)の推測であり、昔の明治のことなのでどこまで的を射ているかは分からない。
一難去ってまた一難
 福山町の街区における反対運動は沈静する気配をみせたものの、それよりも西側となる神島、沼隈、神村から尾道の高須、西村、山波方面に至ってはなお鉄道敷設に異を唱える声が高まっていた。「福山市史近代資料編」などを読み解くと、その様子は次のようなものであったことがうかがえる。
明治24年5月、沼隈郡十一ケ村の土地買収拒絶団体は分裂の様相をみせていた。このうち高須、西村、今津等の団体は鉄道会社に土地を拠出する方向に舵を切ったが、これを知った山波、山北、山手、神島、加屋等の諸村は大いに怒り、その村々は更に小団体化してより強固な運動を展開する気配を漂わすに至った。
中には強情を張って出刃包丁を懐中からのぞかせ、郡長に迫るといった暴挙に出る者が現れたとか、そんな噂が飛び交うくらいに物騒とした空気がこの地域を包むようになってきた。
取り分け沼隈郡には塩田の所有者が多く、その塩田を裂いて鉄道が縦断する松永、山波の両村は深刻な損害を受けることが心配された。
当時、塩田の単位区分は「穴」と表されていたようで、松永村において上ノ浜は沼井五百五十七穴のうち二十三穴、山屋浜は沼井五百三十八穴の二十九穴が線路によって埋められる。
この埋没する穴のみならず、線路の敷設工事によって付近の塩田に潮水が注水するなど様々な影響、被害が及ぶことから全浜を買い取るよう鉄道会社などに迫り、その額は一浜に付き1万円と主張するようになってきた。
前述の貨幣価値で換算すると大福饅頭が200万個買える額で、1マイル(1・6km)当たりの下等運賃が1銭とすると、どれだけの客を乗せて運ぶとこれだけの額を補えるのかと考えれば、鉄道会社がおいそれとその要求を呑むわけにはいかなかったろう。
さりとて、ここで用地の買収工作に手間取ると尾道方面への開通が遅れるばかりで、鉄道会社福山町における街区を抜けてまた一難、塩田沼というやっかいな「穴」に足もとをすくわれかねない状況になってきた。  つづく
※写真①ー③は「福山市制百周年」の記念誌から転載。