尾道のラーメン繁忙記
ブームの礎を築いた朱華園
19日に尾道の本店を閉店

2019年06月10日号

市民・観光客に愛された店

 1920年ごろ、中国福建省出身の張さんという人が青竹で麺を伸ばし、近場の海で獲れた小魚などを煮込んでダシを取り、屋台でチャルメラを吹きながら売り歩いたのがこのまちにおけるラーメン(中華そば)のルーツといわれている。

それから戦後間もない時期、長江の一角に屋台を並べた中に朱 阿俊さんが営む現在の「朱華園」があった。今では観光客のお目当ての店になり、行楽期になると店先に長い列ができる。側を通り掛かった記者(筆者)はその光景を見る度に「今日も儲かっているな」と他人ごとながらホッとする。

残念なことに、その朱華園が6月19日〔水〕をもって閉店することになった。長年この店に通っていた人には衝撃的なニュースで、少なからぬ波紋を広げることになりそうだ。西亀 悟

 小誌では08年8月から5回にわたって「尾道ラーメン繁盛記」と題した特集を連載した。 それは「中華丼一杯の不思議な世界」に魅せられた記者が、各店を取材して見聞きしたことを「四方山話風」に綴った内容で、その連載は09年11月10日号で終えていた。

  この機にその「繁盛記」を復活させ、このまちにおける「ラーメン文化」の礎を成した朱華園の足跡をたどってみたい。

幼い頃に知った味

記者がこの店の味を知ったのは、半世紀前の小学生のときだった。

  当時、三原で暮らしていた私は年に数回、父に連れられ尾道へ遊びに来ていた。

  駅舎の付近にある「大判焼き」の店に立ち寄り、買ってもらった饅頭を頬張りながら商店街をそぞろ歩き、朱華園の暖簾をくぐるのが楽しみとなっていた。

  幼い時期に覚えたこの味は、歳を取っても縁が切れることなく、今も足繁く通っている。

  尾道にはそんな人が何十、何百人と居り、この店を親しみを込めて「しゅうさん」と呼んでいる。

試行錯誤で生み出す味

 歳月が流れ、筆者が経済リポートの記者として朱華園(尾道市十四日元町4ー12、電0848・37・2077)を訪れたのは平成になって間もない93年で、当時連載していた「わが社」と題するコーナーに登場頂くために経営理念などを伺った。

2代目の檀上俊博さん(68)が父親の阿俊さんから店を継いで10年近く経った頃だった。

  開口一番出てきた言葉が「厨房のことは盗んで覚えろというのが父の口癖で、傍らに立っているとそれらしいものは分かってきた。でもしかし、スープは見よう見まねで同じ味が出せるものではなく、父が居ない時に計器で塩分濃度を調べたりしていた。また、私なりにその原料となる小麦粉のおいしさを知ったのはアジアを旅行したときだった。立ち寄ったインドのとある店で出会ったナンは本当においしくて、小麦粉の持ち味を活かす大切さを感じました。

  ただ、スープと麺の出来映えが良くても、それぞれの持ち味が一方の良さを打ち消すようではおいしいラーメンはできない。麺の一本一本にスープの味がほどよく染みこむマッチングが大切で、これらを追求して来て、なお難しいのがラーメン作りの奥深さです」

  この取材で「隠し味」についてそれらしい話も伺ったが、一つ挙げるとしたら「尾道よりも福山の店の方が少しばかり薄めの味にしている」とのことだった。

  尾道から福山の距離でも好みの違いが微妙にあるようで、その繊細な「さじ加減」で織りなすラーメンの味が、尾道だけでなく近郊の人にも好まれた要素になっているのかもしれない。

  「丼一杯の世界」にはこれだけの思い、苦労が込められており、どこの店もその「秘伝の味」を次の世代に継ぐのは至難であり、朱華園も例外ではないようだ。

閉店へ苦渋の決断

  檀上さんは「この度閉店を決意するに至るまで悩み、苦しんできた。父が屋台から始めたこの店は地域の方々、観光客の皆さんに支えて頂き、ここまで営んでくることができた。これからも続けてゆきたいが、70歳近くになって健康を害した。後継に託したいが、私がそうであったように先代の味を継ぎ、それを守り、時代に合わせて進化させてゆくのは至難であり、この店で大切にしてきたクオリティをこれからも追求してゆくことができなくなった。こうした止むに止まれぬ事情が背景にあって、苦渋の決断をした」と、胸の内を明かしている。

  これにより、本店は6月19日〔水〕をもって閉店し、松永店(ゆめタウンの東側)もこり日からしばらく休業、もしくは閉店となる。

  檀上さんが、あえて「廃業」という言葉を使っていないのは、再び店を開く含みを残しているようにも思えるが、そうであってもらいたい。。

いずれにしても、今のラーメンは食べることができなくなるであろうから、記者はその味に別れを告げるために毎日のように通っている。

尾道ラーメンの定義

「尾道ラーメン」にはこれといった定義があるわけでなく、朱華園のラーメンはあくまで朱華園の味であり、この店ではラーメンではなく「中華そば」と称している。

  本編のタイトルが「尾道」と「ラーメン」の間に「の」を挟んでいるゆえんはここにあり、このまちでそれぞれの店が工夫を凝らして創っているラーメンはすべて「尾道のラーメン」ということになるのだが・・。博田、喜多方、札幌のようにご当地ラーメンとして全国に売り出すには「の」を除いた「尾道ラーメン」とするのが通りがよく、それにはやはり定義めいたものが必要になってくる。

店が創り出す持ち味

そのヒントを探るために、記者は09年10月にしまなみ交流館(IR尾道駅)であった講座を傍聴し、これに自身の考察を交えて「尾道ラーメン繁盛記Part5」(11月10日号)でまとめた経緯がある。

  その内容を要約すると次のようになっている。

  尾道大学付属の地域総合センターが「尾道学~おのみち温故知新」をテーマに定期的に開催している講座の一つとして「尾道ラーメン経営学」と題する講座を開いた。

  情報学部の下野由貴教授が学生らと食べ歩いて収集した情報をもとに分析した興味深い講座で「尾道ラーメンの3大特徴」として「小魚を使った醤油ベースのスープ」に「豚の背脂」を浮かせ「平打ち麺」を用いるが挙げられるが、すべての店にこの特徴があるわけでないと、その理由を次のように説明した。

  戦後旧市街地の一角に屋台が並び、それぞれの味を競ったのが今日の隆盛のきっけになったといわれている。

これを黎明期とするならば中興期の役割を担った一つに市内の製麺業者がある。このうち「はせべ」(古浜町)は脱サラなどで開業する人たちに、麺の供給はもとよりスープの作り方、店舗経営のノウハウまでを助言。その結果この地域にラーメン店の暖簾を掲げる店が増えてきた。

  同社の戦略で特筆されるのは「この狭い地域で納入先の店が同じ麺を扱っては競合するとの懸念から、細麺、ちぢれ麺など多様な麺を取引先(ラーメン店)に納入したことが、画一ではないそれぞれラーメン店の特色となっている。

尾道ラーメンの台頭

  90年代に入ると「阿藻珍味」(福山市)が箱詰めにして売り出したラーメンを「尾道ラーメン」と名付けた。記者の記憶では、その頃から尾道のラーメンは「の」が抜けて、同社のたゆまぬ商品開発、営業努力もあって尾道ラーメンはご当地ラーメンとして全国に認知されるようになった。

  一方で、老舗の「つたふじ」などは従来からの中華そば味を守り続け、市中に増えてきた店はそれぞれの持ち味を創り出し、今日尾道ラーメンは隆盛期を迎えている。

「贔屓のラーメン店のことを話し出すと、取っ組み合いの喧嘩になる」といわれるくらい「ラーメン通(つう)」を自称する人が多いご当地にあって、ここで各々の思いを取り上げることができなかったのは心苦しいけれど、「たかがラーメン」「されどラーメン」との思いは同じのはず。

  各店には「尾道のラーメンは、やはりうまい」といわれる味を出してもらいたいというのが、ここまで取材を重ねてきた、ラーメン好きの記者の思いである。