猪原[食べる]総合歯科
医療クリニック・猪原健理事長
「口腔機能低下症を放置するな」
2026年06月01日号

猪原健理事長(左)と夫人の猪原光・訪問診療部長
「最近、食事中によくむせる」「滑舌が悪くなった気がする」「食べこぼしが増えた」——そうした小さな変化を、年齢のせいだと片づけている高齢者が増えたが、近年新たに病気として位置づけられた「口腔(こうくう)機能低下症」が隠れているかもしれないと指摘され、診断もできれば、改善も望めるという。福山市内で外来診療と在宅歯科医療に取り組む「猪原[食べる]総合歯科医療クリニック」(福山市多治米町5―28—15、電084・959・4601)の猪原健理事長(45)は、この病気の概念が学会で生まれた2016年から研究に参加し、保険診療として全国に広がる過程に深く関わってきた、数少ない開業医の一人。日々の診療と地域の食支援の現場から、口腔機能低下症との向き合い方を聞いた。(西原 洋)
—まず「口腔機能低下症」とはどんな病気でしょうか
「噛む、飲み込む、話す、唾液を出すといった『お口の働き』が、加齢や病気、お薬の影響などで複合的に衰えてしまった状態を指します。具体的には、お口の汚れ、お口の乾燥、噛む力、舌や唇の動き、舌の力、咀嚼(そしゃく)の働き、飲み込みの働き、この7項目を検査して、三つ以上に該当すると診断されます。たった一つの機能が落ちている状態ではなく、いくつもの機能が同時にじわじわ落ちてきている、というところが病気のポイントです」
—検査は具体的にどのように行うのでしょうか
「特別な装置で何時間もかける、というものではありません。一つひとつは数分で終わる、シンプルな検査の組み合わせです。患者さんに痛みのある検査は一つもありませんから、安心して受けていただけます。たとえば噛む力を測る『咀嚼能力検査』では、専用のグミを20秒ほど噛んでいただき、噛んだあとに、グミがどのくらい細かくつぶせているかを調べます。粒の大きさが、噛む力の現状をそのまま映し出してくれるのです」
「舌の力を測る『舌圧(ぜつあつ)検査』も特徴的です。小さなゴム製の風船のような形をしたセンサーをお口に入れていただき、それを舌で力いっぱい押しつぶしてもらう。その圧力を機械で数値化します。舌の力は、飲み込み、滑舌、食べ物を口の中で送り運ぶ働きのすべてに関わる、とても大事な指標です」
「歯と歯で噛みしめる力そのものを測る『咬合力(こうごうりょく)検査』もあります。専用のフィルムを上下の歯でぐっと噛んでいただいて、どれだけの力が出ているか、左右のバランスはどうか、を計測します」
「そのほかにも、お口の中の汚れの状態、唾液による湿り気、舌や唇の素早さ(『パ・タ・カ』を繰り返し発音していただきます)、飲み込みの様子などを調べます。一連の検査は、おおむね10分から15分ほど。結果はその場で確認いただけますので、ご自身のお口の現状を、その場で知ってご納得いただけます」
放置すると「フレイル」や
「サルコペニア」の可能性も
—この病気を放置すると、どうなるのでしょうか
「口腔機能低下症は、その先に『フレイル』『サルコペニア』という、より深刻な全身の衰えへとつながっていきます。フレイルというのは、心身の働きが弱まって、要介護の一歩手前まで近づいてしまった状態のことを指す医学用語です。歩くのが遅くなり、疲れやすくなり、体重が落ち、外出が億劫になり、気力までしぼんでいく。サルコペニアは、そのフレイルの中核にある現象で、加齢にともなって筋肉の量と力が大きく減ってしまう状態です。転倒や骨折、そして寝たきりへの、大きな入り口になります」
「お口の衰えは、ここに直結します。噛めない、飲み込みにくい状態が続けば、食事はだんだん偏ります。肉や野菜が遠ざかり、たんぱく質が不足する。すると筋肉が痩せ、足腰が弱り、外出が減り、人と会わなくなり、気持ちまで落ち込んでいく。お口の衰えが、全身の体調を一段ずつ悪化させていくのです」
「口腔機能低下症は、医学的には『オーラルフレイル』とも呼ばれ、全身のフレイルの〝前段階〟に位置づけられています。つまり、お口の段階で食い止められれば、その先の全身のフレイルを未然に防ぐことができる。すでに低下してしまっている方でも、お口の機能が改善すれば、全身のフレイルもまた改善していきます。お口は孤立した一臓器ではなく、全身の元気と双方向につながっているのです」
—貴院は、この病気の学会研究にも参加されたそうですね
「はい。私は日本老年歯科医学会の学術委員として、保険収載に至る全国規模の臨床研究に参加させていただきました。この研究に参加した医療機関は、ほとんどが全国の大学病院でした。北海道から九州まで名だたる大学が並ぶ中で、市中の一般クリニックはわずか2院だけ。そのうちの1院が、当院だったのです。福山という一地方都市の患者さんの口の中が、全国共通の基準を支える一片になっている。これは私自身、ありがたく感じていることです」
—どのくらいの方に見られる病気なのでしょうか
「当院で日々患者さんを拝見している地域での実感としては、65歳以上のおおむね3割ほどに見つかります。いずれにしても、決して珍しい病気ではありません」
「見落とされやすい初期のサインも、知っておいていただきたい。たとえば、食事中によくむせる、食べこぼしが増えた、滑舌が落ちた、口がよく乾く、硬いものが噛みにくい、食事に時間がかかるようになった、薬がうまく飲み込めなくなった——こうした変化です」
リハビリに必要な要素が
詰まっている「カラオケ」
—予防にはどうすればよいでしょうか
「いちばん大切なのは、難しいことではありません。生活が活動的であること、これに尽きます」
「ポイントは四つです。一つめは、外に出る、人と会う、体を動かす、そんなアクティブな日常を保つこと。家にこもらないことが、お口の元気にも直結します。二つめは、歯科医院に定期的に通って、悪い歯やむし歯、合わない入れ歯を、放置せずきちんと治しておくこと。土台が整わなければ、しっかり噛むことそのものができません。歯を失ったままにしないことは、お口の老化に対する、いちばん基本的な備えです。三つめは、よく噛んで食べること。やわらかいものばかりに偏らず、噛みごたえのある食材を意識的に取り入れる。お口は、使わなければ衰えていきます。逆に、毎日きちんと使ってあげれば、年齢を重ねても十分に元気を保てます。そして四つめが、家族や友人と、たくさん話すこと。ここに、私が特におすすめしたいものを一つ加えさせてください。カラオケです」
「カラオケは、声を出す、息をしっかり使う、口を大きく動かす、表情を作る、そして人と一緒に楽しい時間を過ごす——お口のリハビリに必要な要素が、全部詰まっています」
—最後にメッセージを
「すでに定期的にかかっている歯科医院がある方は、次の受診時にぜひ『口腔機能低下症の検査をお願いしたい』と相談してみてください。まだかかりつけ歯科医をお持ちでない方には、この記事をきっかけに、ぜひ探していただきたい。むし歯や歯周病、入れ歯のことだけでなく、お口全体の働きを長く一緒に見てくれる歯科医院を、お住まいの近くに一軒持っていただきたいのです。口腔機能低下症の予防にしても、よい人生を長く保つことにしても、何より大切なのは、歯科と途切れないこと。これに尽きます。最後までしっかり食べて、しっかり話して、しっかり笑える毎日のために、ぜひ、お近くの歯科医院の扉をたたいてみてください」