空港・鉄道・港湾活かした街
明治時代にタイムスリップ
芦田川に鉄橋架ける(41)

2018年06月01日号

福山町から沼隈郡へ鉄道渡る

明治に架けられた芦田川の鉄橋

 「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る」の一節で有名な林芙美子の「放浪記」を引用して始まったこの「鉄道編」は、十数回の連載を重ねてきた。山を越えて海に出て、街の中を抜けるのがこの地域の鉄道の風景であり、このように移り変わる景色を車窓から眺めるのも鉄道の旅の楽しみである。それも先人が苦労して敷設してくれたお陰であり、1世紀を越えて街と街とを繋ぐ架け橋にもなってくれている。その鉄道をさらに活かし、次代に繋げてゆくにはどのようにすればよいのかを問いながら、この鉄道の存在意義を改めて考えてゆきたい。(西亀 悟)
 冒頭からロシアの文豪が登場すると戸惑う人がいるかもしれないが、チェーホフが著した小説「ともしび」に次の一節がある。
 暗闇に包まれた草原のただなかにポツリと灯のついたバラック小屋がたたずんでいる。それは鉄道の敷設工事に携わる工夫が寝泊まりする仮設小屋で、年輩の工夫がウォッカをあおりながら若い主人公に「ねえ君どうだね、すばらしいじゃないか。我々はこうやって鉄道を敷いている。少し前まで荒野だった所に人が集まり暮らし始めている。これから20年、30年のうちには沿線に工場や学校、病院が建つだろう。そうした人々の営みの下地をつくる我々の仕事はとても素晴らしいことだとは思わないかね」
この小説が発表された1888(明治21)年は、くしくも私たちの郷土に鉄道が敷かれようとしている最中で、明治24年の福山ー尾道間の開通を目指して路線の選定や用地の買収を懸命に行っていた時期と重なる。

架け替えられた現在の鉄橋

当時この一帯は草原や荒野と等しく、未開の地が残っていた。
そこを切り拓き、鉄道を敷設してくれたお陰で沿線に商店や病院、工場が建ち並び、福山の駅前には百貨店、尾道には文化ホール、三原の駅前には図書館が開設されようとしており、町と町、都市と都市の人的交流がこの鉄道によって育まれてきた。
「空港・鉄道・港湾」をテーマにしたこの連載は、先人が整備してくれた社会基盤(インフラストラクチャー)を再構築(リストラクチャー)しながら、郷土の発展に繋げてゆくにはどのようにすればよいかを考えることに主眼を置いている。
その志はあっても、本文の内容が伴っていないのが残念なところで、この連載が40回を超えて未だその域に近付けていない。
それでも空港と鉄道、港湾が有機的に連携して、これに「瀬戸内の十字路」といわれる東西南北の自動車道を上手くリンクさせることができれば「どうだね、よりすばらしいことだとは思わないかね」と、先人に胸を張ることができるだろう。
駅前の再生ビジョン
 実は、前述の小説で主人公は「その工場や学校も、半世紀も過ぎればその姿を留めていないのでは・・」と、問い掛けている。
いまでは半世紀を待たずとも、長くて30年、短くて20年、早ければ10年で時代にそぐわなくなってくる社会基盤(インフラ)を絶え間なく再構築(リストラ)してゆくことが、いまの世代に課せられた命題となっている。
今日、それぞれの都市で駅前の再生、再構築について語られているが、本編で「故きを温(たずね)以って師とする」(温故知新)と繰り返して書いてきたゆえんはここにあり、30年を経てそれが残っていても、時代のニーズに沿わないものになっているものが幾つもあることを歴史が証明している。
福山駅前の商業ビル「CASPA」などもその典型で、
40年前に「トモテツ7」としてオープンを迎えた日、核テナントとなっていた㈱いずみ(現㈱イズミ)の山西義正社長が挨拶に立ち「白壁で装ったこのビルを白亜の殿堂と呼ぶのはおくがましいかもしれないが、その呼称に相応しいスケールと感性をもって皆さんのニーズに応え、末永く親しまれ、愛される店舗運営に努めてゆきたい」と述べていた。
でもしかし、こうした高層階の量販店は終焉の時期を迎えており、同社が経営する「ゆめタウン」のような低階層の店舗が市中のあちらこちらに増えるにつれてこの巨艦店舗は威力を失い、やがてこのビルは閉館に至り、駅前の一等地にその巨体を持て余しているようにみえる。
今年3月、福山市(枝廣直幹市長)は「まなびの館ローズコム」(霞町)で「福山駅前再生ビジョン」のフォーラムを開き「20年後の駅前の在り方」について説明した。
この時「福山駅前再生協議会」の清水義次座長(〔一社〕公民連携事業機構代表理事)が講演で「小さいリノベーションから大きいリノベーションへ」と語っていた。
往々にして「駅前の再開発に100年の大計をもってーー云々」と大上段に構え、重厚長大型の開発に取り組むと、やがて二進も三進(にっちもさっち)もいかない、身動きが取れない駅前の姿になるものだ。。
ここはやはり小さなリノベーションから始め、大きなリノベーションへと繋げ、その間にリストラクチャリングを繰り返してゆくのが望ましく、そのためにも時勢に合わせて柔軟に可変できる余地を残した再整備計画であってもらいたいと、私(記者)自身は考えている。
さらに西へ延びる鉄道
 さて、前号の本編では次のように結んで終わっている。
###ケイセン##
 福山町の街区における反対運動は沈静する気配をみせたものの、それよりも西側となる神島、沼隈、神村から尾道の高須、西村、山波方面に至ってはなお鉄道敷設に異を唱える声が高まっていた。
とりわけ沼隈郡には塩田の所有者が多く、その塩田を裂いて鉄道が縦断する松永、山波の両村は深刻な損害を受けることが心配された。
線路の敷設工事に伴う堤防の建設によって付近の塩田に潮水が流入しなくなるなど様々な影響、被害が及ぶことから塩田の全浜を買い取るよう迫り、鉄道会社がこの地域の用地買収に手間取るとそれよりも西、尾道方面への敷設が遅れてくる。
 この号では、鉄道会社や郡当局がこの騒動をどのように収めたのかを記すことにしていたが、そのことで紙幅の多くを費やすのも惜しいので、後段余白ができれば触れるとして、これからは福山ー尾道間の鉄道敷設の経緯をより大局的な視座で俯瞰し、その時代背景をみつめてゆきたい。
芦田川に掛ける鉄橋
 江戸時代に「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われているが、考えてみれば福山町と沼隈郡を隔てた芦田川を、昔の人はどのように渡っていたのかと疑問が湧いてくる。
 川越人足と呼ばれる人に肩車をしてもらっていたのか、梯子を横に倒したような蓮台に乗せてもらっていたのか。その解説は郷土の歴史研究家の皆さんに委ねるとして、福山から尾道へ鉄道を通すにはこの河に重たい機関車が乗るだけの頑強な橋を架けなければならなかった。
 参考までに、写真④は明治中期に掛けられた鉄橋で、①は今年5月に記者が撮影した鉄橋の姿である。
 一見して分かるのが構造の違いで、前者はガーター型、後者はトラスト型といわれている。
 次回は明治期芦田川に架けられたこのガーター橋が、その後現在のトラスト橋に掛け替えられた経緯を交えながら、私たちの郷土における鉄道の歴史をさらにみつめてゆきたい。
※写真②ー④は「福山市制百周年」の記念誌から転載