八杉康夫さんコラム
「死」について
2015年02月20日号
今年は敗戦から数えて70周年。マスコミや出版業界は記念の企画を立て、私のような者にまでアプローチしてきます。何しろ87歳の後期高齢者ですから、本当にお役に立つことができるのか不安になります。でも、証言者が少なくなっているため、生き残りの義務として、精一杯証言して参ります。
このコラムで何度も申し上げ、・耳にたこ・ができておられるかもしれませんが、私は戦艦大和で、また二次被爆とはいえ、広島で本当は死んでいたのです。
いま、このように他人様の前で戦争のこと、平和の意味について語らせていただいているのは、亡くなった上官や戦友から「ちゃんと伝えるように」と、私が生かされているとしか考えられません。
ですから、役目が終わったら潔く人生の幕を引くつもりです。彼らに会えるのですから、死ぬことを恐れたことは一度もありません。
死を前にして日本人はどのように覚悟すべきか-。そのことを改めて考えさせられた・事件・が、最近発生しました。
中東の過激派「イスラム国」を名乗る組織がフリージャーナリスト・後藤健二さんら2邦人を殺害した件です。
確かに、痛ましい事件には違いありませんが、私の見方は少し違います。後藤さんが「イスラム国」のメンバーからナイフを突きつけられた場面で、静かに死を受け入れようとしている表情に強く惹かれました。まるで切腹を前にした武士のように堂々としていたようにも見えました。
なぜなら、後藤さんはシリヤに昨年入国した時、ビデオのメッセージで「例え、私の身に何が起ころうとも、イスラムの人々を非難しないように」と伝えていたからです。今回のことは覚悟していたのではないでしょうか。いろいろな見方があるかもしれませんが、危険な所に行って実情を伝えるのはジャーナリストの宿命です。
もし、後藤さんが解放された、としたらどんな事態が予想されるでしょうか。先に殺害された湯川遥菜さんのことを思い、ジャーナリストとして生きていけなかったのではないか、と思っております。悲劇!