前尾道市病院事業管理者
罷免取り消は求めた裁判(8)
平谷市長が尋問受ける

2015年02月10日号

前尾道市病院事業管理者

 前尾道市病院事業管理者の青山興司氏が、尾道市(平谷祐宏市長)を相手に「罷免取消」を求めた裁判(事件番号平成25年行ウ第19号)が、広島地方裁判所(広島市八丁堀)で13年9月から続いている。昨年1月13日には10回目が開かれた。地方公営企業法により定めた事業管理者の権限、身分に照らして罷免の正当性がこの裁判で争われている。回を重ねた裁判も大詰めを迎え、この日は平谷市長への尋問があった。その内容をリポートし、この裁判の核心に迫っていきたい。(西亀 悟)

この日の裁判は、いつものように地裁北棟の201号法廷で開かれた。
午前10時30分、傍聴席から見て中央に裁判官、左手に原告の代理人を務める水田美由紀弁護士(岡山)と光成卓明弁護士(同)、右手に尾道市の島本誠三顧問弁護士、市の指定代理人として山口憲二氏(総務課法規文書係)、裁判官の正面となる証言台に平谷市長(被告代表者)が着席して始まった。尋問は2時間に及んだ。

 被告、原告代理人から「市長が院内で起きている問題を認識したのはいつか」と問われ「加納副市長が平成24年(2012年)6月4日に岡大病院に出向いて、市民病院で青山氏の病院運営について不満、批判が生じていることを聞き、その報告を受けて知った。その内容は青山氏が宮田院長に外来診療を求めていることを含め、長時間の会議に医師が苦痛を抱いているというものだった」と答えた。
 その後、市長は加納副市長へ院内でのこうした問題の収束を託し、自らは7月26日に岡山大学病院を訪ね槇野院長、金澤副委員長、吉野医学部長の話を聞き、加納氏から報告を受けていた内容と同じあることを確認。「市長として院内で起きているトラブルは看過できない状況にあることを再認識した」と述べている。 そして「岡大から戻って宮田院長、加納副市長、黒田病院管理部長、山田看護部長に会って状況の把握に努める一方で、青山氏に会い、市民病院は岡大との長い歴史の中で成り立っており、医師の多くをお世話頂いている。これまで培ってきた相互の信頼関係が崩れると病院の運営に大きな支障をきたすので、院長はじめ医師の皆さんとの間であつれきが生じないようにお願いした」と語っていた。
収束を図るも

スタッフは”親方日の丸”で仕事をしている』と、その言動が目に余るようになった。そして市長室で青山氏と面談して、病院の建て替えなど予算執行に伴うことを市長へ相談なく発言するのは控えて頂きたい。病院の皆さんは一生懸命仕事をこなしているのに親方日の丸などと士気が下がるような発言は慎んで頂きたいとお願いした。また、青山氏が突然『岡大とは全面戦争になるのも辞さない』と切り出したのに驚愕して、岡大との関係を再び説きながら院内はもとより岡大との間であつれきを生じるような言動は慎むよう要請した」と述べた。
 この時期、市長は病院担当の加納副市長に事態の打開を促す一方で、市長は自身の意向を青山氏に明確に伝えるため文書で要請することを考え、12年8月28付で発した「指示書」には「病院は院長を中心に運営すること」「青山氏の執務室を院内から市役所本庁所内に移し、事業管理者として高所大所に立って業務を執行すること」などと記している。
 また、この文書の作成にあたっては、法令に抵触しないか市の法規担当が顧問弁護士の意見を求め、市長自身は山口氏(当時公立みつぎ総合病院特別顧問)と相談し、加納副市長や病院関係部長らもこの作成に関わったことが明らかになった。
罷免を考えた時期
 市長は「このように文書で要請したにも関わらず、事態の好転がみられなかった。9月24日に私は心配をお掛けしている岡大病院を再び訪ねた。ここでは前回訪問したときよりも状況が悪化しているとの認識を示され、市長として更に適切な対処をしなければ大変なことになるとの思いを強めた」と胸の内を明かしている。 
 市長はさらに13年1月30日、岡大へ3度目の訪問をした。 そして「この時面会した槇野院長と金澤副院長から市民病院の状況が改善されていないとの認識を示され、市長として最終判断をしなければと思うようになった」と、当時の苦しい心境を語っている。 市長がこうした危機感を募らせていた時期の4月9日、市民病院の宮田院長と三船放射線技医師、豊田放射線技師が市長室を訪れた。
 市長は「三船医師は自分が作った文書を持って病院内が差し迫った状況にあることを訴え、その表情などからも青山氏のことで追い詰められている様子がうかがえた。この後、副市長らの報告で医師らの大量辞職の怖れがあることを知り、いよいよ最終決断をしなければいけない時期に差し掛かっている」と当時の心境を述べている。
 その後、原告代理人から「あなたが青山さんを罷免しようと考えた時期はいつですか」と問われた市長は「この3氏と市長室で面会した後」と答え、先に記した「最終的な決断」というのは「罷免」であったことが分かった。
 そして最終的に罷免に至った象徴的な経緯が、市長が発した指示書、勧告書に青山氏が従わず、院内の執務室から本庁に新設した執務室に引っ越して来なかったことが決め手となり、13年5月20日付で罷免を言い渡した。

尋問の傍聴を終えて
 この日、市長の話を聞いて不可解に思ったのは組織統治の在り方で、院内で起きている揉め事を市側が知ったのは外部からの通報を受けてからだった。これは、それよりも早く院長なり医師が病院担当の副市長らへ状況を打ち明ける前に、岡大側へ告げていたことによる。
 尾道ではこういうことが平素から行われているのか定かでないが、市側がこうした状況を先に把握していれば、市長主導で収めることが出来たかもしれない。
 それができていなかったことが後々岡大に対応を迫られることになり、市長はその岡大と青山氏の間で板挟みとなり、苦境に立った。一方で、青山氏もこのように岡大から干渉を受けなければ「岡大と全面戦争になる」などと語って、態度を硬化させることもなかったのではなかろうか。 また、市長は「このままでは大量辞職の怖れがあった」と、それを罷免の大きな根拠としているが、それが院内の過半数なのか、それとも3分の1、あるいは数人なのか、それは誰かと具体的に示すことをしなかった。 
 尋問で挙げのは抽象的かつ限定的な数で、こうした証言が、証拠としてどのように扱われるか注目したい。
問われるガバナンス
 この特集を連載してきた意図は裁判を通じて「病院の在り方」を問うことにあり、その一端が見えてきた。 
 その一つはこの病院が今日の「新医師臨床研修制度」の中で、いかに自主的な病院経営を目指すかで、これは医師をどのように自主的に確保していくかにも繋がってくる。 1月20日号の関連特集では、公的病院を営む人から「記事の行間に市長さんの辛い立場がうかがえる。大学病院から医師を回してもらえなくなると、その日から経営が成り立たなくなる」と、感想が寄せられたことを書いている。
 これには続きがあり「以前は大学に頭を下げれば医師を回してくれていたが、いまの制度(新医師臨床研修制度)は待遇、働き甲斐のある病院に医師が集まる。これまでのように大学頼みだけでは早晩行き詰まる」と話していた。 そうは言っても、尾道市長は市民病院とみつぎ病院に加え夜間救急診療所、さらに島しょ部では4万3千人の医療圏を抱え、因島総合病院でも岡大経由で医師が派遣されていることを考えると、大学に頼る現状をすぐに改めるわけにはいかない。
 だからといって、今回のように大学の意向を窺うようなことを繰り返していては、同じような問題が起きる度に「大学通い」をしなければいけなくなる。
 こう考えると、青山氏が尋問で「大学とは基本的にはパートナーとしての関係が望ましい。お互いに交流しながら、患者さんのためになる医師を育てていく関係でありたい」と語ったのが理想的に聞こえるが、それも相手があることで、こうした理念を共有してもらえるかどうか。 
 市長はこの度の岡大とのやり取りについて「岡大から圧力を受けているとは考えなかった」と語っているが、傍聴していると、その内容は「青山氏の問題を解決しなければ、医師を送り込まない」と圧力を掛けられているようにしか聞こえなかった。 
 院内のあつれきは言ってみれば「コップの中のいさかい」で、外から干渉を受けることなく自ら収束を図るのが望ましい。
 問われるのはその力量で、市長が組織統治の力量をもって収束させることができればよかったが、そのために選んだのが「罷免」だった。
 任期を定めて招いた事業管理者を途中で罷免するには相応の理由が必要で、その根拠の是非がこの裁判で問われている。

 関係者への尋問は、この日午後から黒田英治病院管理部長(当時)へと続き、2月17日〔火〕には市民病院の宮田明院長、山田朋彌市民病院事務部長(同)の尋問が予定されている。