空港・鉄道・港湾活かした街
開業127年の福山駅
明治時代の福山町の世相(39)

2018年05月10日号

鉄道の敷設に戸惑う町民

明治期の福山城周辺

新幹線が福山ー新大阪を1時間余で結ぶこの時代に「わざわざ蒸気機関車が走っていた昔のことを書かなくても」と、首を傾げる人がいるかもしれない。記者自身もそうした疑念がよぎることがあるけれど「明治150年」の節目を迎えたこの時期に、近代国家の礎を築く大きな役を担った鉄道の歩みを振り返ることは、現在そしてこれからの郷土を考えるうえで得るものがあるはずと、自らに問いながら続けている。今回もそんなことを思いつつ、城下町の風情が残る福山に鉄道が敷かれ、蒸気機関車が走ることなど夢想だにしなかった町民が戸惑いながも、それをどのように受け入れていったのかを考えながら、当時の世相をみつめてゆきたい。(西亀 悟)
前号で明治期の福山の世相を綴った「福山市史第五編」(土居作治編著)を次のように引用した。
福山町(市)では阿部正学町長、河相富明助役など町当局の幹部は、鉄道会社が示した町中(市街地)を縦貫する計画路線をそのまま承認していたが、やがて藤井乾助(法律学校卒業の免許代理人)をはじめとする地元住民の間から「この路線が福山城の石垣を削り、城下町の中央を貫通するのは耐えがたい」と反対の声を挙げ始めた。
誠之館を出た藤井乾助

明治期の家屋撤去後に新幹線が走っている

ここに登場する藤井乾助という人の職業「免許代理人」がどういうものかと調べてみたが、そのものを指した解説は見当たらなかった。おそらく今でいう司法書士、弁護士のようなものではないかと思われる。
また、これだけの運動を主導するというのは、一角の人物であったろうとさらに調べると「福山誠之館同窓会」のホームページにその名があった。
それによると、生没年は不明としながらも、深安郡福山町字深津町出身で藩校誠之館、英吉利法律学校(現中央大学)を卒業。1887(明治20)年に代言人試験に合格して法律事務に従事。1892(明治25)年に広島県会議員(1期)となり、同97(明治30)年から台湾総督府法院判官、台南地方法院長を歴任したとといった略歴が紹介されている。
 さらに詳しく調べると「藤井乾助」は「Fujii, Kensuke」と読み、1898(明治31)年、台湾臺南地方法院嘉義出張所の判官を振り出しに1917(大正6)年の臺中地方法院判官として退くまでが「臺南総督職員録」に記されていた。
 ちなみに初任地となった嘉義出張所は、この連載の「空港~台湾編)で記者(筆者)が取材を兼ねて訪れた所であり、尾道市(平谷祐宏市長)と友好都市の関係を築いており、こうしたゆかりのある都市の名が、この「鉄道編」の取材で再び出てきたことに縁を感じずにはいられない。
この藤井乾助という人が台北学院を創立者であり、また「藤井烏●※牛へんに建)」を名乗って台湾で俳句誌「相思樹」の編さんにも関わった粋人で、このような人が郷土の「誠之館」の出身であるというのもこの度の取材で知ることができた。
尾道でも同様の運動
政治家、法学者、歌人でもあった藤井乾助が先頭に立って「この路線が福山城の石垣を削り、城下町の中央を貫通するのは耐えがたい」と声を挙げ、福山大黒座において演説会を主催したことなどをみると、相当重みのある反対運動を展開していたと思われる。 その頃、隣の尾道でも同様の運動が盛り上がりをみせており、こちらは「商人のまち」らしく豪商が先頭に立ち、本編では07年6月20日号(NO11)で「新修尾道市史」(青木繁編著)を引用しながら当時の世相を次のように記している。

1889(明治22)年11月、土屋清三郎(酒類販売を手広く営んでいた豪商)はほか99人の連署をもって「市街に鉄路を敷設するのはこの町の民にとって不利なことこの上なく、憂慮に耐えがたい。ほかの路線をもって鉄道の敷設に代えるべし」と記した嘆願書をもって県知事に申し出た。
鉄道会社との駆け引き
福山町は「城下町」と称されてはいるものの、商業の地としてもそこそこの発展を遂げていた。商店が居並ぶ中を鉄道が縦断すると大変な打撃を受けることになる。ゆえにこの反対運動は「福山城の石垣を削られることは耐えがたい」といった懐旧の情を超えた、生業(なりわい)を賭けた戦いであったに違いない。
こうした運動に対し、鉄道会社は誠意をもって応えながらも随所で駆け引きというか、揺さぶりを掛けてきた経緯が垣間見える。
たとえば「この運動が収まらなければ福山町にある派出所を廃し、尾道派出所に合併する」であるとか「福山停車場(駅)を廃止してこれを深津郡津之郷村に置かんとする計画がある」といった具合である。
これは鉄道会社が「福山よりも尾道の方を重んじて出先の機関を拡充。路線を山手、奈良津の山間方面に転換してその駅を津之郷に開設する計画がある」と臭わせながら、街地への鉄道敷設を「是」とする者と、これを「非」とする者との分断を図る戦術に出たのではないかと思われる。
こうした駆け引き、揺さぶりともみえる戦術は尾道においても見受けられ、その経緯を本編では前述の「新修尾道市史」(青木繁編著)を引用しながら当時の世相を次のように記している(17年10日号No13)
鉄道会社(山陽鉄道)は尾道の反対意見に配慮した妥協案として西村(沼隈)から三成に至る路線を検討している。その際、停車場を市の西端にある吉和村に置くこと。また、当初第2工区の最終停車場を尾道としていたが、それは尾道が海上、陸上交通の要衝であり、人の往来物資の集散地として要の位置にあったことによる。しかし地元民の尾道市街貫通反対の動きから、やむおえず山間を抜ける路線を検討しているうち、将来的には三原の方が港として栄える条件が優れていると考えるようになった。
これを知った町長(横山亮一)は「尾道側の陳情が必ずしも町民全体の意見と受け止めることはできない。百年の計たる鉄道路線の決定は慎重な考慮を要する」とした考えを県に申し出て、これを受けた知事は「尾道側の固執案が結局のところは尾道のために過ぎず、国家百年の大計に沿わないとして書記官を尾道に派遣し、反対派の主だった人に市街地通過を受け入れるよう説得したものの、彼らは耳を傾けなかった」
仲介、調停者が現れる
こうした鉄道会社の揺さぶりは、うがった見方をすると男女の駆け引きにも通じており「あなたよりも良い人がほかに居るから」と垣間見せることで相手の動揺を誘い、自身のペースに巻き込む手法に似ているようにもみえる。
その「男女の関係」がここでは福山と尾道、尾道と三原ということになるのだが、ここで知事が「尾道の反対運動は地域のエゴに過ぎず、国家百年の大計に沿わない」と指摘したことは国内各地でいわれていたことで、この山陽鉄道で結ばれた福山、尾道、三原はその敷設にあたって理解と協力の姿勢示しながらも、本音の部分ではそれぞれのエゴや損得勘定も相まって、路線の決定に少なからぬ影響を及ぼしたことがうかがえる。
いつの世もこうしたいさかいの場には仲介、調停者が現れるもので、尾道では西国寺の住職とともに寺西脩平、渡橋善兵衛、倉田吉兵衛、小野磯次、松本清介、橋本吉兵衛、天野嘉四郎といった名士がその任を担ったが、福山でも同じように火中の栗を拾う大役を買って出る人が現れた。